「残酷であること」の救い。
最近、自殺のニュースをよく耳にする。
偏見気味で恐縮だが、芸能人や漫画家の方で自殺する人間が多いように感じている。
芸能人や漫画家は、その芸や作品の善し悪しについて、判定基準に明確な部分がなく、あやふやな部分がある。
それ自体は尊いものかもしれないのだが、周りからの適切はリスペクトが得られず、
本人の思惑とかけ離れて勝手にことが進んでしまうケースがある。
その場合、自分の芸の方向性が本来のものと適切なのか誤っているのか、
誰も的確に宣告してくれず、ずっと結論つかず、ずっとあやふやなままで進んでしまうことになる。
当初、それなりの自信をもっていたものが、ことが進むにつれ、結果として現れないようになってくる。
まずいと思って、いろいろ試行錯誤するのだが、結果はいい具合に進展する気配すらなくなってくる。
そうこうしているうちに時は容赦なく経過し、どうすればいいのがさえ見通しがつかないようになり、
遂には自分自身でさえもその出来具合が適切に判断できなくなり、段々に居場所が狭まり、
最終的には真綿で首がしまるような感覚で自殺に追い込まれるように感じている。
その点、スポーツ選手の場合は、パフォーマンスの善し悪しが結果としていやおうなしに現れる。
捉えようによっては、そのある意味「残酷であること」が救いとなっているように感じる。
自分も社会人となって結構長い。
どんだけ必死な思いで頑張っても結果が出せず、上司に見限られた。
また、諸事情によりやむなく異動、退職となったケースもお見受けする。自分もその経験がある。
「かわいそう」、「報われない」だと思う反面、
それは別の意味でいえば「救われている」ということでもあるのだなと思った。