将棋に負けるとなぜこんなにも悔しいのか。
将棋愛好家なら誰しも経験していることだが、将棋に負けるのはホントに悔しい。
「負けた」という事実をすんなり受け入れらず、あれこれ言ってその場をのたまいたくなるし、
それでもその事実を中和、転嫁することが出来ず、胸が張り裂けそうになる。
特に悪手、緩手を咎められたり、相手の指し手を見落とした時やるせなさといったら。
己のふがいなさにすごく落ち込むし、それと当時に、むらむらと怒りが込み上げてくる。
腹いせに誰かをぶん殴りそうになる。(やらないけど…)
もう、将棋盤も見たくないと思うほど嫌いになる。(それでもまたやるのだが...)
なぜ、こんなにも悔しいのか。
将棋はお互いが1手ずつ交互が差し手を進めていくゲーム。
自分の出番になったら、当然だが、自分で自由に指し手を決められる。
「制限時間内に指す」という制約はあるものの、それ以外は誰にも邪魔されない。
ただ、それゆえに、指した手は紛れもなく自分自身で選んだ手である。
もし、指した手が敗着となった場合、当然ながらその原因は誰でもなく、(自分自身が決めた)「その指し手」に帰結する。
また、それが制限時間に追われて考えきれずに指した手であっても、
(自分自身が決めた)「指し手」であることに替わりはない。後で何を言おうとそれは言い訳でしかない。
完全に自己責任。「自分自身が負けにした。」という事実からは逃れられない。
そこに気が狂いそうになるほどに湧き上がる悔しさの根源が眠っていると思っている。
誰のせいでもなく「自分自身が負けにした。」という残酷な結果を、ただただ受け入れるしかない。
そこには、誰かに直接言われたわけでもないが、「自分自身が不当であった」というサジェスチョンが発生し、
そこにたっぷり含まれているある種の軽蔑的なメッセージが、いやおうなし神経を逆なでする。
話しは変わって、ここ最近、将棋界でいろいろ問題を指摘されているが、
将棋自体は奥深いマインドゲームだとともに、日本が世界に誇る文化でもあると思っている。
「界・道・盟の精神」(もはや死語か)とまでは求めないが、品位を落とすことはしないでほしいととみに思う。