impedance(インピーダンス) 全てに抗え!!

この世の全てに歯向かい、抵抗することでしか存在を見いだせない愚直な漢のオルタナティブ? ブログ

画一的な「作業者から業務リーダ、プロジェクトリーダへのシフト」について

10月末に、弊社で新しく制定される予定である新人事制度についてのお話を聞いた。

 

全内容は当然公開出来ないので、一部の概要だけいうと、

業務リーダ、プロジェクトリーダの育成、シフトに重きを置いており、

ゆくゆくはリーダクラスの人間をを増やし、新規案件の獲得や、既存案件の拡大に結びつけ、

最終的には会社の業績アップを図ろうという試み。

 

決して誤っているわけではないのだが…

 

話を聞いている限り、必要以上に作業者より業務リーダ、プロジェクトリーダを重宝しているように感じた。

一律「作業者より業務リーダ、プロジェクトリーダの方が優秀」という風に。

別の視点でいうと、通常は各種リーダの下で作業に従事している作業者について、

その存在意義を軽視しているように感じた。

 

それについて違和感を感じている。

 

確かに、優秀なリーダの采配によって、

求められた成果にプラスして有益は付加価値を与えられたら、

リーダの功績とて評価されてもいいし、するべきだと思っている。

 

しかし、プロジェクトはリーダ1人で進めているわけでは当然なく、

その下で柱となって従事している作業者の目に見えない活躍があって成立している。

リーダが評価されるのならば、作業者にもそれに劣らない評価を与えるべきである。

 

また、リーダ全てが優秀なわけではない思っている。

実際、能力に欠けるリーダもいるし(うちの現場にもいるしね)、

末端の作業者でも、リーダを凌駕する程活躍している人もいる。

 

そもそも、リーダとか作業者とかというのは、プロジェクトにおけるただの「役割」にすぎない

役割を評価しているのがおかしい。業務への貢献度で評価するべきだと思う。

 

また、「業務リーダ、プロジェクトリーダへのシフト」についてだが、

全ての人間にリーダとして素質があるわけではないと思っている。

作業者として申し分ないくらい優秀だが、

リーダとしては重要は局面で責任の重みに耐えきれずに適切な決断を行えず、

一般的なリーダと比べ、パフォーマンスを出し切れないう人もいると思うし、

その逆のケースもあると思う。

 

また、よく考えてみて欲しい。

従業員全員が社長になってしまったら、会社なりたたないだろう。

 

新しく制定される予定である新人事制度については、

一律「作業者から、業務リーダへのシフト」といった画一的なものではなく、

「三流の業務リーダ、プロジェクトリーダより、一流の作業者を重宝する。」といった

よりきめ細かい画期的な人事制度を望む。

 

 

そうでなければ、今まで現場のため、会社のため身を粉にしてきた末端の人間が報われなさすぎる。

残業自慢

「昨日、徹夜してさぁ~」とか「休み連チャンで出勤したんだよ。」とかいったクソ安いアピール。

好きになれない。

 

しかし、かくいう俺も残念ながらその1人…orz

 

俺の場合、スキルに自信がないから、

「周りよりも多くの時間現場で業務に従事した」ことしか誇れるものがない。

 

こんな俺を笑わば笑え。

野性のない理性は役に立たない。

職業柄、業務の大半がパソコンを利用することが殆ど。

そのため、何するにしても、どうしてもパソコンに依存する傾向が強くなってしまう。

 

その影響だろう。

打ち合わせとかでノートを取るとき、文字を早くかつ正確に書けなくなってきている。

また、トラブル対応等でホワイトボートを利用してその事象について説明を要する際、

思うような図が書けず、その結果、状況を適切に伝えることが難しいと感じるようになった。

 

大変まずいと思っている。

 

パソコン等の普及により、ノートで文字を書くことが圧倒的に少なくなったとしても、

文字を書くことについて必要不可欠のものであることには全く変わりないと思っている。

 

パソコンを使って文章を入力する場合、

誤字脱字の判断がパソコンまかせで自分で出来ないのはおかしいし、

それでは、せっかくいい道具を使っても、そのパフォーマンスを十分に発揮できない。

 

第一、もしパソコンが無くなった場合、どのようにして記録を残すのだろうか?

 

「媒体上で意思を伝える」原点である文字を書くことをおろそかにするのは間違っていると思う。

 

話は変わるが、最近は車でも、

運転者が意識しなくても、システム側で安全対策が施されているのが主流となりつつあるが、

本来「車を安全に運転する」行為は、運転者側で常に意識して行うべきものである。

それを、必要以上にシステムに依存している状況について、個人的には危惧を感じている。

 

理性があっても、野性の含んでいない理性なんて、何の役にも立たないと思っている。

 

以上。

 

久々のブログ更新。

「言い訳するな。」と「言い訳をしろ。」

仕事等でよく失敗して、そのことについて弁明していると「言い訳するな!!」とよく叱られる。…orz

また、「言い訳するやつは成長しない。」というのは、よく聞く話。

一般的に「言い訳」はよくないもの、してはいけないものと認識されている。

 

しかし、ドラゴン桜15巻で、

「言い訳をしろ。」「言い訳をきちんとできる人間こそが真の成功を収める。」という話があった。

 

かたや「言い訳するな。」とか、かたや「言い訳をしろ。」とか、

一見矛盾してて、「どっちなんだよぉ。」という話なのだが、結論としては「どっちも正しい。」ということ。

 

要するに、「言い訳するな」 というのは「失敗した責任をよそに転嫁するな。」ということで、

もう一方の「言い訳をしろ」というのは「失敗した起こった原因や、それを繰り返さないたもの対処を説明しろ。」ということ。

 

上記「言い訳するな。」での言い訳とは

「失敗に対して、その責任をよそ転嫁するための名分」のことをさしており、

「失敗した責任をよそに転嫁せずに、自分の責任として認識しろ。」ということを意味している。

 

それに対して、もう一方の「言い訳をしろ」での言い訳とは

「その失敗が発生した原因」のことをさしており、

「その失敗に対して、何故発生したのかを追求し、その失敗を繰り返さないための対策を講じろ。」ということである。

 

要は2つとも、「失敗に対し、自分の責任と認識して、しかるべき対処を行え。」という同じ意味のメッセージである。

 

同じ、「言い訳」と表現しているが、その指している意味は違うということ。

そして、一見正反対に思える言葉が、実は、伝えたい意図は同じなのだということ。

 

言葉だけで捉えると支離滅裂だが、この違いをきちんと把握していれば、矛盾していてもその思いは受け入れられるはず。

 

日本語は難しい。

助からないと思っていても助かっている

趣味である将棋について書きたい。

 

自分が最強の棋士は誰と聞かれたら「大山康晴」と答える。

 

将棋界の最高峰である名人位を通算18期獲得、

そして通算勝利数 1433勝をあげた大名人である。

 

全盛期、晩年期の振り飛車での受け潰しが印象に残っている。

将棋自体は小細工を嫌った正攻法の棋風で、

面白みに欠けるところがあるが、そこがまた好みでもあった。

 

強い将棋ももちろんそうだが、その生き方、人生哲学には当時の俺は大きな影響を受けた。

「平凡は妙手に勝る」、「助からないと思っていても助かっている」は名言だと思っている。

 

「1433勝勝ちつづけたという事実」がなによりのアイデンティティだと思う。 

 

自分も中学の時、将棋に傾倒していたのだが、

大山将棋は他の人の将棋とは明らかに哲学が根本的に違うのを感じていた。

その大山将棋について、感じえたことを自分なりに伝えたいのだが、

あまりにも深遠すぎて、うまく表現しきれない…orz

 

週刊新潮(7月25日号)の大山康晴の記事を読んだ。

近年になって、コンピュータ将棋が進化し、プロ棋士を負かしていることが話題になっている。

その無機質に差し手を選別しているコンピュータ将棋が

いかにも人間臭い大山将棋に例える棋士が多いのは意外に感じた。

 

やはり棋譜だけでは、大山将棋の本質は語れない。

没後20年。将棋の戦術が進化しているほどに、より異様な光彩を放っているのがそのなによりの証拠。

 

大山康晴が亡くなった際、自分はまだ中学生。

まだ人間として幼く、当然将棋についても本質なんて理解する術もなかっだが、

生前に残した力強い将棋をリアルタイムで立ち会えたことを光栄に思う。

 

将棋関連の記事は今後も掲載したいと思う。

ちなみに俺の棋力アマ3段。(晩年そうだろうな...)

上司の言葉

結構上司の悪口を言っているが、

今回は、その上司に助けられたことについて書きたい。

 

今配属しているプロジェクトは、3ヶ月単位でシステムをバージョンアップするサイクルで進めている。

その中で、2013年5月中旬に開放する案件について、結構開発規模が大きく、

2013年3月下旬から5月中旬まで、個人的にはとてもハードな状況だった。

スケジュールがシビアなうえ、自分自身のスキルが不足していたところもあり、とても苦戦していた。

その忙しい状況の中、4月下旬頃、

会社の施策である今年度上期の目標設定について上司と話す必要があったため、

1分でも惜しいわずかな時間を割いて、現場を離れ上司との面談を行った。

 

その面談の中で、自分の境遇について話題にのぼったのでありのまま話したところ、

親身に同情してもらいつつも、業務に対しては「故障はゼロにしろ!!」、「乗り越えろよ!!」といった厳しいお言葉。

個人としての優しさと業務への厳しさが高次元におり混じったメッセージ。

まだ先行きが見えない状況の中だったが、とても肩の荷が下りたのを覚えている。

 

その後もハードな状況は続いたが、

何とか期限までには運用に耐えうる品質のものを提供でき、今時点順調に稼働している。

 

そのハードな状況を何とか乗り越えきれたのは、その上司のメッセージによるところが大きい。

こういう上司に出会えたことは大きな財産だと思う。(悪口書いててスイマセン...)

 

やはり、今の会社を選択したのは間違ってないと確信している。

「残酷であること」の救い。

最近、自殺のニュースをよく耳にする。

 

偏見気味で恐縮だが、芸能人や漫画家の方で自殺する人間が多いように感じている。

 

芸能人や漫画家は、その芸や作品の善し悪しについて、判定基準に明確な部分がなく、あやふやな部分がある。

 

それ自体は尊いものかもしれないのだが、周りからの適切はリスペクトが得られず、

本人の思惑とかけ離れて勝手にことが進んでしまうケースがある。

その場合、自分の芸の方向性が本来のものと適切なのか誤っているのか、

誰も的確に宣告してくれず、ずっと結論つかず、ずっとあやふやなままで進んでしまうことになる。

 

当初、それなりの自信をもっていたものが、ことが進むにつれ、結果として現れないようになってくる。

まずいと思って、いろいろ試行錯誤するのだが、結果はいい具合に進展する気配すらなくなってくる。

そうこうしているうちに時は容赦なく経過し、どうすればいいのがさえ見通しがつかないようになり、

遂には自分自身でさえもその出来具合が適切に判断できなくなり、段々に居場所が狭まり、

最終的には真綿で首がしまるような感覚で自殺に追い込まれるように感じている。

 

その点、スポーツ選手の場合は、パフォーマンスの善し悪しが結果としていやおうなしに現れる。

捉えようによっては、そのある意味「残酷であること」が救いとなっているように感じる。

 

自分も社会人となって結構長い。

どんだけ必死な思いで頑張っても結果が出せず、上司に見限られた。

また、諸事情によりやむなく異動、退職となったケースもお見受けする。自分もその経験がある。

「かわいそう」、「報われない」だと思う反面、

それは別の意味でいえば「救われている」ということでもあるのだなと思った。