impedance(インピーダンス) 全てに抗え!!

この世の全てに歯向かい、抵抗することでしか存在を見いだせない愚直な漢のオルタナティブ? ブログ

「林先生の痛快!生きざま大辞典。」を見て…

たまたまテレビ見た。

番組名は「林先生の痛快!生きざま大辞典。」(TBS系)。

 

何人かの偉人について取り上げ、

その偉人の人生の中で出くわしたピンチをどう乗り越え、成功していったかを紹介し、

そこから現代の人生にも通じるヒントを探っていき、解説していく番組。

 

その偉人の1人に将棋棋士の米長邦雄について紹介されていた。

 

かつて四冠王まで上りつめた米長が、突然勝てなくなってしまった。

その状況をどう乗り越えていったか?

その対処として「今まで独学で研究していたのをやめ、若手棋士に教えを請う。」というエピソードが紹介されていた。

 

「かつての四冠王が、年齢もキャリアも下の若手に頭を下げて教えを請う。」という行動に

「プライドを捨てるなんてなかなか出来ないよね。」というスタジオのゲストの方々の感想に対し、

解説の林修先生(「今でしょ」でブレイクした東進ハイスクールの講師)は、

スタジオの感想とは異なり「プライドを捨てたのではなく、ゴールを見誤らなかった。」という見解を述べた。

詳細は以下の通り。

  ・ 「若手に頭を下げている自分よりも、将棋に勝てない自分が一番許せなかった。」

  ・ 「再び勝てるようになるなら、若手に頭を下げて教えを請うなんて安いもの。」

  ・ 「体裁だけの価値が安いプライドは捨てて、本物のプライドを持っていた。

         だからこそ、49歳にして名人位を獲得することが出来た。」

 

「体裁だけの価値が安いプライドは捨てて、本物のプライドを持っていた。」という結論。

なかなか本質をついていると思う。

 

とても胸が打たれた…

それとともに生きていく上でプライドは邪魔なものではなく、捨ててはならない大切なものなのだと思った。

 

テレビは内容が薄い番組が結構あったりするので、努めてあまり見ないようしていたのだが、

この番組には最後まで見入ってしまった。良い番組だったと思う。

 

 

今年も宜しく。

将棋のアマチュア化(良い意味で)

将棋の話を書きたい。

 

自分が将棋に傾倒した時期(1991-1993)は指される戦法は殆どが矢倉。

しかも当時は森下システム全盛期でタイトル戦は殆ど矢倉だったのを覚えている。

 

しかし、今は振り飛車等他の戦法も普通にお見受けするようになった。

当時は全くと行っていいほど見られなかった相振り飛車等も指され、

本当に多彩になったように思う。

 

その要因について、今まではプロ棋士間で居飛車党、振り飛車党といった風に、

基本的にその棋士での得意戦法は固定化される傾向にあったが、

それにより相手に事前に研究、対策を練られやすいため損と感じ、

その枠に依存せず様々は戦法を指しこなす棋士が増えたこともある。

 

それも大きいと感じているが、しかし、こうして将棋の戦法が多彩化した最大の要因として、

プロ棋士がアマチュアの発想を柔軟に取り入れているように感じる。

 

当時、「振り飛車には角交換」といって、受け主体の戦法である振り飛車について

「角交換は居飛車側の得」、「振り飛車は角交換させない」というのが

当たり前といっていいほどのセオリーだったのだが、

今では、ゴキゲン中飛車や角交換振り飛車等、

むしろ、振り飛車側から積極的に角交換を行うほうが当たり前といっていい。

 

また、一手損角替わり腰かけ銀みたいにあえて手損する戦法や、

藤井システムのように居玉から攻撃を仕掛けるのをよしとする戦法なんて、

当時の発想では思い浮かぶことすらなかったのではなかろうか。

 

昔常識とされてきた将棋のセオリーが一部、あるい全てが覆されてきている。

 

しかし、上記傾向について別の視点で考えれると、

こういう発想は、プロに比べてセオリーに対して執着心の薄いアマチュアのほうが思いつきそうだ。

確かに、振り飛車側から積極的に角交換して、

攻撃に転じるセンスはプロよりむしろ、アマチュアの方が好みそうだ。

 

自分が近年の将棋を見てて、アマチュアっぽさ(良い意味で…)を感じているのだが、

それは、戦法が多彩となったことと、既存のセオリーに執着しない指し回しが多く見受けられること

この2点が要因として大きいと思う。

 

おそらく、プロ棋士の間で、今までの将棋にどこか限界みたいなものを感じていたのではないのだろうか。

その限界を打破するため、既存の概念に捕らわれるのをやめて、様々な発想を取り入れ、指し手に反映されているように推測している。

その結果、将棋がまた別の方向性を模索しているように感じている。

 

近年ではアマチュアでの指した手がプロの実戦で現れ、おおいに注目されるケースも幾つかある。

また、電王戦等でコンピュータの筋にはまらない指し手が、話題となり、プロを大いに悩ますこともよく見かける。

 

よくよく考えれば、今では振り飛車対策として当たり前のように指されている穴熊なんかも、

指された当初はあまり見向きされなかったようだ。

それについても、おそらくは理解できるセンスが追いついてなかったのだろうと思慮できる。

 

 

今後、将棋自体がどう広く、かつ深く展開されるのか興味深い。

画一的な「作業者から業務リーダ、プロジェクトリーダへのシフト」について

10月末に、弊社で新しく制定される予定である新人事制度についてのお話を聞いた。

 

全内容は当然公開出来ないので、一部の概要だけいうと、

業務リーダ、プロジェクトリーダの育成、シフトに重きを置いており、

ゆくゆくはリーダクラスの人間をを増やし、新規案件の獲得や、既存案件の拡大に結びつけ、

最終的には会社の業績アップを図ろうという試み。

 

決して誤っているわけではないのだが…

 

話を聞いている限り、必要以上に作業者より業務リーダ、プロジェクトリーダを重宝しているように感じた。

一律「作業者より業務リーダ、プロジェクトリーダの方が優秀」という風に。

別の視点でいうと、通常は各種リーダの下で作業に従事している作業者について、

その存在意義を軽視しているように感じた。

 

それについて違和感を感じている。

 

確かに、優秀なリーダの采配によって、

求められた成果にプラスして有益は付加価値を与えられたら、

リーダの功績とて評価されてもいいし、するべきだと思っている。

 

しかし、プロジェクトはリーダ1人で進めているわけでは当然なく、

その下で柱となって従事している作業者の目に見えない活躍があって成立している。

リーダが評価されるのならば、作業者にもそれに劣らない評価を与えるべきである。

 

また、リーダ全てが優秀なわけではない思っている。

実際、能力に欠けるリーダもいるし(うちの現場にもいるしね)、

末端の作業者でも、リーダを凌駕する程活躍している人もいる。

 

そもそも、リーダとか作業者とかというのは、プロジェクトにおけるただの「役割」にすぎない

役割を評価しているのがおかしい。業務への貢献度で評価するべきだと思う。

 

また、「業務リーダ、プロジェクトリーダへのシフト」についてだが、

全ての人間にリーダとして素質があるわけではないと思っている。

作業者として申し分ないくらい優秀だが、

リーダとしては重要は局面で責任の重みに耐えきれずに適切な決断を行えず、

一般的なリーダと比べ、パフォーマンスを出し切れないう人もいると思うし、

その逆のケースもあると思う。

 

また、よく考えてみて欲しい。

従業員全員が社長になってしまったら、会社なりたたないだろう。

 

新しく制定される予定である新人事制度については、

一律「作業者から、業務リーダへのシフト」といった画一的なものではなく、

「三流の業務リーダ、プロジェクトリーダより、一流の作業者を重宝する。」といった

よりきめ細かい画期的な人事制度を望む。

 

 

そうでなければ、今まで現場のため、会社のため身を粉にしてきた末端の人間が報われなさすぎる。

残業自慢

「昨日、徹夜してさぁ~」とか「休み連チャンで出勤したんだよ。」とかいったクソ安いアピール。

好きになれない。

 

しかし、かくいう俺も残念ながらその1人…orz

 

俺の場合、スキルに自信がないから、

「周りよりも多くの時間現場で業務に従事した」ことしか誇れるものがない。

 

こんな俺を笑わば笑え。

野性のない理性は役に立たない。

職業柄、業務の大半がパソコンを利用することが殆ど。

そのため、何するにしても、どうしてもパソコンに依存する傾向が強くなってしまう。

 

その影響だろう。

打ち合わせとかでノートを取るとき、文字を早くかつ正確に書けなくなってきている。

また、トラブル対応等でホワイトボートを利用してその事象について説明を要する際、

思うような図が書けず、その結果、状況を適切に伝えることが難しいと感じるようになった。

 

大変まずいと思っている。

 

パソコン等の普及により、ノートで文字を書くことが圧倒的に少なくなったとしても、

文字を書くことについて必要不可欠のものであることには全く変わりないと思っている。

 

パソコンを使って文章を入力する場合、

誤字脱字の判断がパソコンまかせで自分で出来ないのはおかしいし、

それでは、せっかくいい道具を使っても、そのパフォーマンスを十分に発揮できない。

 

第一、もしパソコンが無くなった場合、どのようにして記録を残すのだろうか?

 

「媒体上で意思を伝える」原点である文字を書くことをおろそかにするのは間違っていると思う。

 

話は変わるが、最近は車でも、

運転者が意識しなくても、システム側で安全対策が施されているのが主流となりつつあるが、

本来「車を安全に運転する」行為は、運転者側で常に意識して行うべきものである。

それを、必要以上にシステムに依存している状況について、個人的には危惧を感じている。

 

理性があっても、野性の含んでいない理性なんて、何の役にも立たないと思っている。

 

以上。

 

久々のブログ更新。

「言い訳するな。」と「言い訳をしろ。」

仕事等でよく失敗して、そのことについて弁明していると「言い訳するな!!」とよく叱られる。…orz

また、「言い訳するやつは成長しない。」というのは、よく聞く話。

一般的に「言い訳」はよくないもの、してはいけないものと認識されている。

 

しかし、ドラゴン桜15巻で、

「言い訳をしろ。」「言い訳をきちんとできる人間こそが真の成功を収める。」という話があった。

 

かたや「言い訳するな。」とか、かたや「言い訳をしろ。」とか、

一見矛盾してて、「どっちなんだよぉ。」という話なのだが、結論としては「どっちも正しい。」ということ。

 

要するに、「言い訳するな」 というのは「失敗した責任をよそに転嫁するな。」ということで、

もう一方の「言い訳をしろ」というのは「失敗した起こった原因や、それを繰り返さないたもの対処を説明しろ。」ということ。

 

上記「言い訳するな。」での言い訳とは

「失敗に対して、その責任をよそ転嫁するための名分」のことをさしており、

「失敗した責任をよそに転嫁せずに、自分の責任として認識しろ。」ということを意味している。

 

それに対して、もう一方の「言い訳をしろ」での言い訳とは

「その失敗が発生した原因」のことをさしており、

「その失敗に対して、何故発生したのかを追求し、その失敗を繰り返さないための対策を講じろ。」ということである。

 

要は2つとも、「失敗に対し、自分の責任と認識して、しかるべき対処を行え。」という同じ意味のメッセージである。

 

同じ、「言い訳」と表現しているが、その指している意味は違うということ。

そして、一見正反対に思える言葉が、実は、伝えたい意図は同じなのだということ。

 

言葉だけで捉えると支離滅裂だが、この違いをきちんと把握していれば、矛盾していてもその思いは受け入れられるはず。

 

日本語は難しい。

助からないと思っていても助かっている

趣味である将棋について書きたい。

 

自分が最強の棋士は誰と聞かれたら「大山康晴」と答える。

 

将棋界の最高峰である名人位を通算18期獲得、

そして通算勝利数 1433勝をあげた大名人である。

 

全盛期、晩年期の振り飛車での受け潰しが印象に残っている。

将棋自体は小細工を嫌った正攻法の棋風で、

面白みに欠けるところがあるが、そこがまた好みでもあった。

 

強い将棋ももちろんそうだが、その生き方、人生哲学には当時の俺は大きな影響を受けた。

「平凡は妙手に勝る」、「助からないと思っていても助かっている」は名言だと思っている。

 

「1433勝勝ちつづけたという事実」がなによりのアイデンティティだと思う。 

 

自分も中学の時、将棋に傾倒していたのだが、

大山将棋は他の人の将棋とは明らかに哲学が根本的に違うのを感じていた。

その大山将棋について、感じえたことを自分なりに伝えたいのだが、

あまりにも深遠すぎて、うまく表現しきれない…orz

 

週刊新潮(7月25日号)の大山康晴の記事を読んだ。

近年になって、コンピュータ将棋が進化し、プロ棋士を負かしていることが話題になっている。

その無機質に差し手を選別しているコンピュータ将棋が

いかにも人間臭い大山将棋に例える棋士が多いのは意外に感じた。

 

やはり棋譜だけでは、大山将棋の本質は語れない。

没後20年。将棋の戦術が進化しているほどに、より異様な光彩を放っているのがそのなによりの証拠。

 

大山康晴が亡くなった際、自分はまだ中学生。

まだ人間として幼く、当然将棋についても本質なんて理解する術もなかっだが、

生前に残した力強い将棋をリアルタイムで立ち会えたことを光栄に思う。

 

将棋関連の記事は今後も掲載したいと思う。

ちなみに俺の棋力アマ3段。(晩年そうだろうな...)